画面を見つめて
先日、自分の体調をすぐになんとかしたくて、たくさん寝ようと焦ったりしている中、テレビで見かけた顔と首の「筋肉ほぐし」と「むくみ流し」の組み合わせをやってみました。
「今すぐその場で変化を感じる」という魅力的な言葉に誘われて、つい画面の動きをそのまま真似して、強い負荷をかけてしまったようです。その結果、翌日見ごとに首が動きづらくなってしまいました。痛む首を抱えながら、思いました。今の私の身体、その不調は決して一瞬で作られたものではありません。ここ数日、あるいはこの夏から秋にかけて、日々の姿勢や動き方、思考、感情、そして生活の積み重ねという「プロセス」の結果として、今ここにあるのです。それなのに、効率主義消費主義の感覚のままで、数分の動画によって、身体の変化のという結果を得ようとしていました。
「今すぐ」を求める声
体調を崩したとき、私たちは一刻も早くそこから抜け出したいと願います。早く元気になりたい、早くいつもの日常に戻りたい。その焦りは、私たちの内側で静かなノイズとなって響き始めます。たくさん寝ようと焦れば焦るほど神経は昂り、今すぐなんとかしようと画面の向こうの情報に飛びつくとき、私たちの意識は「今、ここにある自分の身体」から完全に離れてしまっています。
「これだけで激変する」という言葉は、プロセスをすべてすっ飛ばして、完成品だけを今すぐ手に入れたいという消費主義そのものです。そこにハマっているとき、私たちは自分の身体が発している「痛い」「苦しい」という微細な声を聴くことをやめてしまっています。身体を労っているつもりで、実は外側の都合のいいスピードに合わせて、自分の身体を力ずくでコントロールしようとしている。首の動かなさは、その焦りに対する身体からの、静かで強烈な引き止めでした。
外側にある正解に明け渡すということ
お越しいただく皆さまから、テレビやインターネットの動画を見て身体を痛めてしまった方や、旅先のマッサージを受けてかえって辛くなってしまったという話をよく耳にします。
旅先の開放感や、今日は特別だからというご褒美感。そんな温かい気持ちのなかで自分を癒やしたいと願うのは、とても純粋で美しい動機です。けれど、その非日常の心地よさのなかで、私たちは知らず知らずのうちに、一番よく知っているはずの自分の身体の主導権を、外側にある誰かの手に完全に委ねてしまうことがあります。痛くても強さを調整してと言えずに受け続けてしまうこともありますよね。
画面の向こうの言葉も、出先の施術者の手も、今のあなたの身体がどんな季節を越えて、どんなプロセスを積み重ねて今ここにあるのかを知りません。外側の「正しいとされる形」に自分を合わせようとして、内側の声とのズレを無視してしまったとき、身体は悲鳴をあげます。ストレッチも強くやらないと効果がないと考えてしまったり、自分自身の身体さえも思い通りに消費しようとしてしまっているのかもしれません。
身体の知性に、寄り添うということ
情報が溢れる現代において、私たちはつい、自分の身体をも思い通りに「コントロール(支配)」しようとしがちです。思い通りに動かないと焦ってしまったり、「手に負えないもの」として遠ざけてしまいたくなることもありますよね。でも、少し立ち止まって身体の営みに目を向けてみると、そこには驚くほど見事な「自然の調和」が存在していることに気づかされます。
転んで傷ができれば、私たちが何もしなくても自然とかさぶたができて皮膚が再生していきます。骨折をしてしまったときは、添木をして治りやすい環境を整えたら、あとはただ身体の治癒の力を信じて待つだけです。ぎっくり腰になったときも同じ。身体がギュッと緊張して動かなくなるのは、「これ以上無理やり動かないで!」という、身体の健気な防衛反応(プロテクション)です。その緊張が自然と解けるような過ごし方をそっと選択して、快復の邪魔をしないこと。これは、「何もしないで放っておく」のとは違います。風邪をひいた時もまた同じ。身体の知性を信頼し、その歩みに寄り添うということです。
と、こんなお話をしている私ですが、実は今、まさに「ぎっくり背中」の真っ最中。寝違えたような痛みを背中に抱えて、二日目の朝を迎えています(笑)。
カイロプラクターであっても、こういう波はやってきます。原因をそっと振り返ってみると、どうやらストレッチポールに乗って、気持ちよさに任せてゴロゴロと転がりすぎてしまったようです。「良かれと思ってやったことで、逆に身体を痛めてしまう」まさに、私自身が身をもってそれを証明してしまいました。忘れた頃にまた同じことを繰り返しています。
ですが同時に、痛みを抱えながらも、私の内側のセンサーはどこか面白がって、身体の動きをじっくりと観察しています。
右の肩甲骨の下あたりの肋間が痛むのですが、右の肩を挙げて外に開いても痛くはありません。ところが、左の腕を挙げて外に開こうとすると、右の背中にウッと痛みが走るのです。左側を動かしようとするとき、身体は連動して、右側の肋骨周りを引き伸ばそうとします。その瞬間、私の右の背中は「今はそれ以上引っ張らないで!」と声を上げているのですね。
もしここで、「痛むから」といって無理なストレッチでグイグイと伸ばしたり、力づくで痛みをねじ伏せようとしたら、それは身体を無視した「コントロール」になってしまいます。
激しい痛みに襲われた昨日に比べると、今日はほんの少しだけ、身体が動くようになってきました。この、昨日から今日にかけての「ほんの少しの回復のグラデーション」に意識を向けるとき、私は再び、身体の持つ壮大なタイムラインに引き戻されます。
ギックリ背中という強いブレーキがかかったときも、私の内側にはやはり「早く治ってほしい」という焦りが生まれました。しかし、関節や筋肉の緊張が解け、元の調和を取り戻していくためには、どうしても省くことのできない「安心」や「時間」というプロセスが必要です。昨日よりも、ほんの少し呼吸が深くできる。昨日よりも、ほんの数センチ遠くへ手が届く。その遅くて不完全な、けれど確実な歩みを見つめていると、これこそが生命の本来のスピードなのだと気づかされます。
身体の主権を取り戻す
首や背中を痛めた私は、ヨガに行こうかな、あるいは信頼できる人に治療してほしいな、と考えました。信頼できる他者の手を借りながら、もう一度「自分の身体と対話する時間を取り戻すため」のステップです。
本当に自分の身体を大切にするということは、外側の情報を遮断して孤独になることではなく、他者のサポートを優しく受け入れながらも、最終的な対話の主権を自分の中に残しておくということだと考えます。
「この動きは、今の私の身体にとって心地よいだろうか」
「この治療の手の温もりを、私の身体はどう受け止めているだろうか」
そうやって、外側の手を架け橋にしながら、もう一度自分の内側の微細な感覚へと意識を潜らせていく。それこそが身体の自立を取り戻すための、静かなインナーワークなのです。
人間の都合や効率主義のスピードでは、自然も、この自分の身体も動いてはくれません。種から育つ植物たちが、長い時間をかけて土の下で根を伸ばすように、私たちの心と身体の回復にも、満ちていくためにも、それ相応の不可欠な時間が流れているのです。
身体を大切にして、生きていく
傷ついたとき弱ってしまったときは、早くなんとかしようと焦るのをやめて、ただ「今、ここにある痛みとプロセス」をそのまま受け入れてみる。不格好でも、時間がかかっても、自分の内側の声をじっくり聴くこと。
ただ、今ここに体をもつ人間として存在しているのだから、身体を大切にして日々を過ごしていきましょう。
それは、結果だけを求めて自分をすり減らす生き方から、そっと降りるということでもあります。今ここにある、その頼りなくて愛おしい身体とともに、人生を歩んでいく。
パーツの修理ではなく、フラットへのリセット
慢性的な肩こりや腰痛がいつもあると、それが「当たり前」になってしまうかもしれません。それを当たり前にはしないでほしいのです。工場の機械のようにパーツを修理するのではなく、私たちはもっと生身の身体と対話していく必要があるのではと思います。
かといって、力でコントロールするのではなく、本来のフラットな状態へと、そっと「リセット」していく。私たちがカイロプラクティックやセッションを通してサポートさせていただいているのも、まさにこの「リセット」のお手伝いです。
痛みや不調をただの”嫌なもの”として敵対するのではなく、今、この身体はどんな風に私を守ろうとしてくれているのかな?と、身体という静かな相棒の声に耳を傾けてみる。そんな風に、もっと自分の身体の知性を信頼して、委ねてみるのはいかがでしょうか。
まずは私自身も、この右の背中が心地よくリセットされていく時間を、ゆったりと味わいたいと思います。皆様も、どうぞご自身の身体を愛おしむ、優しい時間をお過ごしください。
もしかしたら、ここまでの話を読んで「そんな風に身体の声を聴くなんて自分には難しい」「凄いな、私にはできない」と感じる方もいるかもしれません。でも、そう思うこと自体も、決して責める必要はないのです。私たちはそれほどまでに、外側の正解やスピードを求められる社会のなかで、一生謙虚に生きているのですから。
身体の声をきくということは、決して特別な技術や修行ではありません。むしろ、その「難しいな」と感じる心に寄り添うところから、すでに静かな対話は始まっています。


