9月の連休に、静岡の富士宮を離れて少し遠出をしてきました。
新潟の糸魚川から、富山、そして岐阜へと至るルートです。そこは、本州の地質の境界線である「フォッサマグナ」が通る場所。
ただ純粋に、フォッサマグナという地質の境界を見てみたい。そんな気持ちから、大地の大きな溝(フォッサマグナ)へ。

最初に私たちが向かったのは、新潟の糸魚川にある小滝ヒスイ峡でした。目の前に現れたのは、かつて海の底だった場所が長い年月をかけて押し上げられたという、明星山(みょうじょうさん)の圧倒的な大岩壁です。その高さ400メートルを越える断崖絶壁をただただ見つめていると、そこにしがみつくようにして、力強く、青々と生えている松の姿が目に留まりました。土がほとんどないような、厳しい岩の隙間にしっかりと根を張り、ただ光と風を受け入れて佇んでいる松。後から学んで知ったのは、あの大岩壁が、およそ3億年前という遥か古生代の地層であるということでした。赤道近くの南の海で育った「サンゴ礁」が、プレートという地球の大きな巡りに乗って果てしない時間を旅し、隆起して姿を現したものなのだそう。
難しい理屈は分からなくても、その圧倒的な存在感を前にただ佇んでいるだけで、私たちのちっぽけな頭の分析や焦りは自然とお休みしていきます。3億年という地球の大きな流れの上に、私たちが今、生かされている。私たちは日々のなかで、つい頭(思考)ばかりを忙しく働かせてしまいがちですが、あの岩肌の松のように、何かを無理にコントロールしようとすることなく、ただそこに存在してみる。ただただ、地球の壮大さを感じました。

次に向かったのは、フォッサマグナの露頭(ろとう)でした。地層や大地の境界線が、そのまま地表にむき出しになって現れている場所。そこには、東日本を形作る数億年前の古い硬い岩盤と、西日本を形作るそれよりもずっと新しい地層が、まるで一本の線を引いたようにピタッと接していました。
西日本と東日本でプレートが違う。その西と東の違いを、露頭を前にして分かったような、わからないような、不思議な感覚で眺めていました。ただ目の前にある巨大な大地の重なりをじっと見つめていると、言葉を超えた静けさだけがそこにありました。細い境界線に見えるその奥には、東の島と西の島が、南からのプレート(のちに私たちの暮らす富士宮の土台となる大地)によって繋ぎ止められたという、深くて広い「大地の記憶」があるということ。
東と西の大地が重なり合う、このフォッサマグナという大きな場所。その大地の営みがあるからこそ、この糸魚川の土地には、ある恵みがもたらされています。それが、「ヒスイ」の存在です。
ヒスイは、およそ5億年もの昔、地球の底深くの巨大な圧力のなかで育まれた石なのだそうです。あまりにも深い地下に眠っていたその古い古い大地の結晶が、フォッサマグナという日本列島を引き裂くほどの大きな地殻変動によって、一気に地表へと押し上げられ、川を流れ、ヒスイ海岸の波打ち際へと運ばれてくる。露頭を見つめたあとに私たちがヒスイ海岸へ向かったのも、大地の大きな割れ目と、そこに眠るいのちの結晶が、一本の線で繋がっていたからでした。
ヒスイ海岸では、寄せては返す波の音を聴きながら、足元のたくさんの石のなから「それっぽいもの」を探す。「これかな」と直感で選んだ、白くて少し重みのある小さな石。旅を終えて自宅に戻ってから、そっとペンライトの光を当ててみると、石の内側がじんわりと優しく光を透かしました。糸魚川の大きな溝の端っこで出会った、小さなヒスイの光。時間を忘れて、ただ足元の石を眺めていたあの時間。お家で小さな石が静かに光を透かした瞬間。そのささやかな光に、なんだか言葉にならない愛おしさを感じていました。

海岸の近くでは、奴奈川姫(ぬながわひめ)という古代の女神の存在を知りました。この糸魚川の土地で、大地の結晶であるヒスイと共に生きていたとされる女神です。古事記に登場する彼女は、出雲大社の大国主命(おおくにぬしのみこと)と結ばれ、その二神の間に生まれた子が、のちに諏訪大社の祭神となる建御名方神(たけみなかたのかみ)だと言い伝えられています。 出雲(西)からやってきた神様と、この糸魚川(まんなか)の女神が出逢い、そこから生まれた命の物語が、やがて信州の諏訪(東)の地へと優しく流れていく。それはまさに、このフォッサマグナという大地の大きな巡りのなかで、西と東が出逢い、命を支え合ってきた壮大なつながりそのもののようにも思えました。
現代の私たちは、ヒスイを物理的な鉱物として捉えがちですが、かつてこの大地に生きた先人たちは、大自然の目に見えない生命力を感じ取り、天と地の巡りに同調させて生きていたのかもしれません。人間と自然が、目に見えない深い部分で確かにつながっていたという感覚が、波の音と共に伝わってくるようでした。
その後は、フォッサマグナミュージアムへ。
ただ純粋に知りたくて、学びたくて訪れたその場所で、これまで自分の足で歩き、五感で受け取ってきた大地の記憶が、立体的につながっていくような楽しさがありました。明星山の大岩壁も、東と西のプレートの重なりも、そして手のひらにある小さなヒスイも、すべてが地球の果てしない時間の満ち引きのなかで繋がっているということ。そこで、鉱物や大地の魅力をみずみずしく描いた『瑠璃の宝石』という漫画の存在も知り、いつかゆっくり読んでみたいな、というささやかな楽しみも生まれました。
知識として頭で記憶するのではなく、その壮大な物語を心や意識の奥でそのまま「感じる」こと。それ自体が、私たちの心や身体を本来の健やかな巡りへと還してくれるのだと思います。

旅の1日目は、3億年の大地の記憶と、そこへ祈りを捧げていた先人たちの伝説を感じ真っ赤な夕焼けと共に静かに暮れていきました。フォッサマグナの大きな溝、その途方もない大地の営みのなかで育まれた温かなお湯で癒されました。
(第2話へ続く)




