前回のブログでは、大雪山の混交林や野に咲く花々から、外側の物差しに振り回されずに自律して調和する「内なる自律」についてお話ししました。
植物たちが大地のエネルギーを素直に受け取り、そのサイズで生きる姿に触れた後、私たちの旅は、この大地そのものが持つ圧倒的なパワーと、そこに刻まれた人間の生々しい歴史の記憶へと向かっていきました。
暮らしのすぐ隣にある、地球の荒々しい息吹
道中、洞爺湖や阿寒湖を訪れた際、驚いたのは、「火山の歴史が、すぐ人間の暮らしの隣にある」という生々しい現実でした。
私たちが普段見上げている富士山も火山ですが、北海道の火山はより剥き出しで、今も地球が生きていることを私たちに突きつけてくるような荒々しさがあります。ゴツゴツとした岩肌から立ち上る湯気、大地の奥底から響くような地熱の気配。そうした大地の活動の記憶が、すぐそこの里山や人々の暮らしのそばにある。実際に現地のハザードマップがリアルな助けになる場面があったそう。
人間には決してコントロールできない地球の荒々しい息吹とともに、知恵を絞りながら逞しく生きる人々の営み。それを目の当たりにしたとき、ふっと、富士山の噴火の可能性を日常のすぐそばに感じて生きる、自分たちの静岡での暮らしとも静かに重なる部分を覚えたのです。私たちは常に、この変化し続ける地球の上で生かされているのだと、改めて皮膚感覚で理解する時間でした。
時空を超えて繋がる、命のバトン
さらに十勝平野へと車を進めると、そこには見渡す限りの広大な地平線と、過酷な自然を拓き、大規模な農業・酪農の営みを作り上げてきた先人たちの、圧倒的な開拓民精神が広がっていました。静岡とは全く違うスケールの景色に圧倒されながら、これまで好きなお土産のひとつだった「マルセイバターサンド」。その商品の故郷に辿り着き、パッケージのルーツを紐解くなかで、私は衝撃を受けました。
明治時代、まだ道なき道だったこの十勝の過酷な原野に命を懸けて入植し、酪農の礎を築いた「晩成社」の依田勉三という方がいました。彼が、静岡(伊豆の松崎町)の先人であったことを知ったのです。
明治時代、まだ道なき道だったこの十勝の過酷な原野に命を懸けて入植し、酪農の礎を築いた「晩成社(ばんせいしゃ)」の依田勉三という方がいました。彼が、静岡(伊豆の松崎町)の先人であったことを知ったのです。
勉三は私財を投げ打ち、不毛の原野だった十勝を「開拓せねば」という強い内なる意志だけで、静岡から遥か北の地へ渡りました。干ばつや冷害、害虫の襲来、相次ぐ飢饉。どれほどの絶望に直面しても彼は諦めず、十勝で初となる牛の放牧を始め、明治18年には北海道で最初となる本格的なバター「マルセイバタ」を誕生させました。その当時の製品ラベルのデザインこそが、いま私たちが目にするあの「マルセイバターサンド」のパッケージのルーツなのです。
勉三たちの開拓は、彼らの存命中には大きな経済的成功を収めることはできませんでした。「晩成社」という名の通り、花が開いたのは彼らが去ったずっと後のこと。十勝を代表する菓子メーカーである「六花亭」が、彼ら先人の血の滲むような苦闘と、十勝の酪農の原点を作ってくれた功績への深い敬意とオマージュを込めて、あの「マルセイバターサンド」を作り上げたのです。先人の想いを、ただの歴史の遺物として終わらせず、文化として今に繋ぎ、現代の十勝の誇りへ。
何千キロも離れた北の大地で、同郷の先人が遺した功績という命のバトン。それは単なる歴史の知識ではなく、いま自分が踏みしめている足元の大地がぐっと深くなるような、驚きと感嘆と感動でした。私たちが今、何気なく受け取っている豊かさの背景には、外側の過酷な環境に屈せず、自らの内なる意志を信じて大地に根を張った先人たちの血の滲むような歩みがあったのだと、ただただ感心しました。
人間のエゴが引き裂く、最果ての境界線
一方で、旅が最果ての地へ向かうほど、大地には自然の営みとは裏腹に、人間が引き裂いた重い歴史的境界線も生々しく横たわっていました。
別海から納沙布岬の前に立ち、水平線を見つめたとき、驚いたのは、国後島の大きさと近さでした。「北方領土」という言葉を教科書の中でしか知らなかった私にとって、海の向こうに確かに見えるその島影のリアルな質感は、より重みを持って迫って見えました。
そして、樺太がすぐ近くにあるという、最果てのリアルな地理感覚。それは、歴史や国家という、人間が頭の中で作り出したエゴや都合が、この繋がっている大地に線引きをしてきたかという現実を、五感を通して刺さりました。
さらに千歳の空からは、突如として地を傷つけるような戦闘機の轟音が爆音となって響き渡り、普段から自衛隊の演習地が近くにあり、富士山周辺での砲弾演習の音には多少は慣れているはずの私ですら、その耳を刺すような金属的な轟音には、首がすくむような恐怖を覚えるほどでした。
広大な湿原のすぐ隣には、環境保護やクリーンエネルギーという名目のもとで、資本主義的にどこまでも敷き詰められた大量の太陽光パネルのグレーの光景が広がっていて…
地球が持つ圧倒的な火山や北の大地の生命力と、人間が消費主義や支配欲によって生み出している構造物の割り切れなさ。その双方が、この広大な大地の上には同時に存在していて、私はとても複雑な思いに駆られました。
足元の大地を信じて、一歩ずつ進む
人間社会のこうした割り切れなさや、強さで世界を書き換えようとする力の歪みに直面したとき、私たちの意識は簡単に足元をすくわれてしまいます。ニュースを見たり、現代の歪みを肌で感じたりするたびに、不安や怒り、無力感の中に意識が浮き足立ってしまいがちではありませんか。
偉そうなことは言えません。資本主義や効率主義、生産性を求める社会の波に押し流されそうになるとき、私自身、何が本当の正解なのか分からなくなり、自分自身を見失いそうになることが大いにあります。
そんな時、私たちをもう一度力強く支え、中心へと戻してくれるのが、この「大地の視点」なのだと思います。
日々提供しているカイロプラクティックや、ネイチャーリトリートという場の中で、何よりも大切にしているのが「グラウンディング(地に足を着けること)」という感覚です。それは、単に地面の上に真っ直ぐ立つというだけの技術的なことではありません。
かつて依田勉三たちが、何もない、明日をも知れない過酷な原野に鍬(くわ)を入れ、たとえ自分たちの代で実を結ばずとも、泥にまみれながら「ここに根を張る」と決めて命のバトンを繋いでくれた、あの圧倒的な精神の強さに想いを馳せること。あるいは、人間のエゴによる境界線をも遥かに超えたスケールで、ただそこに厳然と佇み、命を循環させている火山の圧倒的なエネルギーを、自分自身の身体の奥底で思い出すことだったりします。
自分の本質に根を張り、自律して歩む
というのは、私たちの心身の土台は、外側の社会が提示する正解や、誰かが作った歪んだ物差しの上にあるのではありません。今、自分が立っているこの大地の奥深く、そして先人から受け継いだ命のバトンの上にしか、本当の軸は存在しないのではないかと思うのです。
外側の強いノイズや、私たちを不安にさせるシステムから少しだけ意識を引き戻し、ご自身の足の裏から、地球の揺るぎない安定感と繋がってみる。
先人たちが何もない荒野に自らの命の根を張ったように、私たちもまた、外側の正解を付け足すのをやめ、自分の本質に深く根を張り、自律して歩みを進めることができると思います。
目の前の割り切れない現実をしっかり見つめながらも、流されず、足元の大地を信頼して、今日の一歩を確かに踏み出していくこと。それこそが、この大変な時代になった今、誰かに支配されることなく、私たちの本質を主体的に生きていくための、何より力強いベースになるのだと考えます。
皆様の足元が、今日も揺るぎない安心感と、力強い大地の生命力で満たされていますように。
今日も美しい1日をお過ごしください。




