依存も支配もしない、野生の知恵
前回のブログでは、夏至へと向かう北の大地で、太陽や月の果てしないサイクルにいのちのリズムを同調させていく心地よさについてお話ししました。天体の巡りという、人間には決してコントロールできない領域の純粋な優しさのようなものに触れながら、旅が進むにつれて私の目に飛び込んできたのは、この地球上で生きる動物や植物の逞しさと、人間がそこに引いている「境界線」についてでした。
知床五湖の原始的な美しさのなか、ガイドツアーに参加しました。
この時期はヒグマの活動期、地上遊歩道の散策は必ずガイドツアーとなります。前日にはウトロにある世界遺産センターで学び、そこでハッとさせられたのは現地の方々の「ヒグマとの本当の付き合い方」です。
メディアで見ていた野生の美化でなく、支配や排除でもない。お互いのいのちの尊厳を守るために、地元の方々が実践していたのは境界線の管理なのだと感じました。
ヒグマが不意に身を隠して人間に近づいてしまわないよう、道路脇の草刈りが近隣で協力しながら徹底され、人間側のゴミの管理には厳格なルールが敷かれていました。生活してみないとわからない細かなことはもっと多くあるのだと思います。お互いが一個の独立したいのちとして、超えてはならない一線を厳しく、しかし深い敬意を持って引いているように感じました。
観光消費という矛盾のなかで
知床の海でクルーズに乗りシャチやクジラ、イルカが悠々と泳ぎ、たくさんの鳥が舞う海の多様性を見た時、現代の観光消費という仕組みを大いに享受していました。その矛盾を自分の中で棚に上げることはできません。けれど、だからこそ、ただ自然を「消費する、利用する」だけの存在に終わらせず、ビジターセンターやガイドさんたちのように、教育や保全を通して自然への畏敬を伝えようとする現地の真摯な営みに、心からの敬意が湧きました。
人間のエゴが引き裂く現実
同時に、この北の大地には、人間側のエゴや都合によって歪められた境界線も、生々しく存在していました。
釧路湿原の保護施設で出会ったオオワシは、人間の放った鉛弾による中毒や事故で傷つき、リハビリを続けている個体たちでした。人間の消費や都合の影で、鉛に侵されながらも圧倒的な威厳を放つオオワシの姿にハッとする一方で、広大な湿原のすぐそばには、クリーンエネルギーという名目のもとで敷き詰められた、大量の太陽光パネルの光景が広がっていました。
別海や納沙布岬から水平線を見つめたときには、すぐそこに迫る国後島の驚くほどの大きさと近さに、歴史や国家が引き裂いた重い境界線の現実を突きつけられました。千歳の空からは、突如として地を傷つけるような戦闘機の轟音が響き渡り、富士山周辺での砲弾演習の音に慣れている私でも、とても驚き怖さを感じました。
自然が本来持っている純粋な多様性と、人間が消費主義や支配欲によって強さで書き換えようとする力の歪み。その両方が、同じ一つの空の下に存在していて、複雑な思いになりました。
内なる「神聖な境界線」を引き直す
現代社会の多くの苦しみや葛藤は、誰かをコントロールしようとしたり、逆に外側の消費の仕組みに自分自身を明け渡して消費されてしまったり、適切な境界線が見えなくなることから生まれると感じています。
日々、お身体に触れるカイロプラクティックやネイチャーリトリートという場を通じて皆様と時間を共有するなかでも、この「適切な境界線を取り戻すこと」の重要性をいつも実感しています。
知床の草刈りのような、自らの尊厳を守り、同時に相手の尊厳を侵さないための「神聖な境界線」を、自分の内側と外側の世界に対して静かに引き直すこと。
誰かの作った正解や、消費を煽るシステムに依存するのをやめ、お互いを一個の自律したいのちとして尊重し合う。その適切なバランスを取り戻したとき、私たちの意識は外側の支配から解放され、本来の魂の歩みを進めることができるのではないのかなと考えます。難しいと感じることも大いにあります。
新しい意識の変容へ
野生の動植物たちが魅せてくれた純粋な逞しさと、人間社会の境界線の現実。
それらすべてを等身大で見つめる視点を持つことこそが、この大変な時代になった今、これまでの意識を変容させていくための、大切な一歩なのだと感じています。
今日も美しい1日をお過ごしください。




